2011年10月29日

全力ポエジー

 なんで俺たちが格好いいとか悪いとか、そんなことなりふり構わずに詩を読んだりするのはさ。つまり明日死んじゃったら納得いかないからでさ。もし歌えるんなら、そりゃ、歌うしかない。

 迷ったら、歌え。

Live Number:EX
YOKOHAMA SPOKEN WORDS SLAM
http://ameblo.jp/ysws-staff/
日時:10月28日(金) 開場24:00/開演24:30
会場:横浜B.B.ストリート
出演:初途/リトルキヨシ/渡辺タテタ/湯原昌泰/エスキモ

セットリスト:
夏の雨〜「Il pleut」
「hatsuyume」
posted by 渡邉健太 at 21:57| Comment(0) | TrackBack(0) | ライブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月27日

理由

1
 先日、スティーブ・ライヒの「ドラミング」を鑑賞した。例えるならばデジタル音源の「A-Bリピート」のように、短いフレーズの繰り返し。本作の焦点はそこから徐々に逸脱していくマリンバにあるのだが、俺にとってそれはささいなことだった。長い演奏時間を持つ作品が、反復によって短いフレーズを強く印象付け、まるで短い作品のような錯覚を起こしたのだ。

 それは短歌の反復朗読に似ていた。

 起伏に富んだドラマよりも、端的な事象はより無常を感じさせる。長い時間に及ぶストーリーは変容を内包し、つまり無常を取り込んでしまっている。無常は連続して在り、結果的に感得されるのは常だ。例えば我々は変化し続けているはずの毎日を「日常」と呼ぶ。
 しかし一瞬の出来事は、それ自体が一瞬であることに起因して、次の瞬間には消えてなくなっている。過ぎ去った瞬間は刻一刻と遠ざかり、その喪失をより克明にする。それは無常を浮き彫りにする。動画と静止画の差異だ。そして短歌は静止画の側にある。

2
 音楽は音を素材にして、絵画は色や点を素材にして作品を生み出す。それらは全体としてイメージを伝播する。
 例えば楽曲が和音や規則性のある進行を伴っていれば、音が互いに馴染んで絡み合い、全体として感得される。或いは流れるように描かれた線は強力な象形として出現し、それが点の連続であることを感じさせない。しかし不協和音は音の一粒ごとが主張し合い、或いは点描は絵画の素材が点であることそのものを曝け出す。

 詩は言葉を素材にして作品を成す。言葉は意味を持っており、知覚とは即ち言語化だ。しかし韻文は素材としての言葉を浮き彫りにし、ときには意味をも麻痺させる。そうすることで散文との差異化をはかっている。
 現代音楽や点描の絵画を鑑賞するたびに、素材の生の姿を見せつけられ、言葉を事物として見ることを再確認する。人は忘れる生き物だから、俺は何度も鑑賞に通う。

3
 俺は短歌を詠み、そして読む。

 短歌によって切り取った一瞬は、もはやこの世界に存在してはいない。すべてが無常であることを詠うために、それは舞台(時間の芸術)として見せなければならない。歌集は開くたびにその歌を見ることができ、それは絵画や彫刻(空間の芸術)の側である。何世紀にもわたって残るそれらが無常であることを知るには、あまりにも長い時間を要する。
 無常を動機とし、それを演出したいと願うのならば、この三十一文字の刹那は朗読されなければならない。だから俺はライブをするのだ。
posted by 渡邉健太 at 14:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

明けない夜は、まだ来ない

 さてと、五年目を始めますか。

Live Number:69
アコースティック・ナイト
日時:10月26日(水) 開場19:00/開演19:30
会場:代々木ARTICA
出演:渡辺タテタ/スズキタケオ/小浜里沙

セットリスト:
雨音の短歌、五首
夏の雨〜「Il pleut」
季節の短歌、五首
「直子」
「ノルウェーの森」(ビートルズ/訳詞:渡辺タテタ)
「檻の中は自由」(初演)
2011年の短歌、五首
「ムーンシーカー」
「アニバーサリー」
「迷い道、中ごろ」
posted by 渡邉健太 at 00:27| Comment(0) | TrackBack(0) | ライブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月14日

舌を噛んで黙れ

1
 ヨコハマトリエンナーレに『5番目の壁』という作品があった。
 四面の壁に囲まれた部屋の一角に隙間があり、そこから覗き込んで見えるのは、やはり四面の壁。俺は注意深くキャプションと室内を交互に見やる。するとスタッフの女性が声をかけてきた。部屋の中にビデオのテープが垂らしてあって、入り口からは見えないけれど、中に入っていくと云々……。

 つまりはこうだ。左右の角の対角線上に天井からテープが吊してあり、細い面が隙間のある角を向いているためにそこからは見えない。が、中へ進むと徐々にテープの広い面が見えてきて、並んだそれが部屋の中央に壁のように現われるのだ。

 なぜこんな壁と磁気テープがアートなのか。
 それは偏に驚きだろう。何もないように思えた部屋に、実は見えない壁があったという驚きだ。再び入り口へ戻ったときには、視界には映らなくとも経験がそこに壁を浮かび上がらせるだろう。同じ世界の違う側面を見るという発見の喜びが沸き起こる。こうして人の心を揺さぶるインスタレーションだから、この作品はアートなのだ。

 あのスタッフは作品の構成ではなく、芸術とは何かをこそ理解してから現場に立つべきだった。それは知覚するものではなく、感得するものだ。むしろ何も知らない保守管理スタッフをぼんやり立たせておいた方が100万倍よかった。
 もしも感動に気が付かれなければ、それは仕方がない。それもまたアートの宿命だからだ。

2
 ライブハウスで歌うとき、作品の動機を懇切丁寧に説明するシンガーがいる。自分がいつ、どこへ行き、何を見聞きして、どう思ったか。そして何を伝えたくてその歌を作ったのか。
 説明が終わったら、もう歌など聴くまでもない。いまからどんなことを歌うのか知っているからだ。そのメロディーや、詞に置き換えられたモチーフのメタファーがどんなに素晴らしくても、感動するのは困難だ。

 アーティストは意味を伝えたいのか、それとも相手の心を揺さぶりたいのか。
 感動は明確なものではなく、むしろいまのは何だったのかと不安になるようなものだ。それをもっと見たい、聞きたいと鑑賞者の側が自発的に近づいてくる類のものだ。意味を理解し、すとんと納得してしまったら、さらに近づきたいと思うほどの関心が残っているだろうか。

 作者や展示に関わる人間は、その意図に気付かれないことを不安に思うかもしれない。それでも沈黙するのだ。人の心を揺さぶる作品の波動を、自ら断ち切ってしまうことをこそ恐れなければならない。
posted by 渡邉健太 at 17:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月13日

ムーン・ナイト

 情熱は人を駆り立て、盲目にし、けれどもとてつもない行動力を発揮させる。それはときに醜いかもしれないが、そうした逸脱なくして美は出現し得ない。それぞれが言葉にもがく、月夜。

Live Number:EX
Mido midnight vol.17
http://d.hatena.ne.jp/mido-mido-mido/
日時:10月12日(水) 開場19:30/開演20:00
会場:池袋3-tri-
出演:オープンマイク(ホスト:mido、ゲスト:渡ひろこ/イダヅカマコト)

セットリスト:
「直子」
「Relationship」
posted by 渡邉健太 at 03:38| Comment(0) | TrackBack(0) | ライブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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