2011年11月29日

浴室思考(孤独)

 人間として生まれ、生きるうち、おそらく孤独にはなれない。それが都会ではなく、小さな町であってもだ。
 目を覚ませば家族がいて、ドアを開ければ町人がいる。駅には駅員がいて、電車には乗客がいて、会社には同僚がいて、昼食を取りに入った定食屋には大将がいる。一杯飲みに入った店には女の子がいて、深夜のコンビニには搬入スタッフがトラックでやってくる。客のいない牛丼屋にさえ強盗が訪れる。孤独になるなんて、とても不可能だ。

 それが家族や恋人であっても、煩わしくない人間関係などない。だからときどき独りになりたくなる。孤独というないものねだりをする。

 仕事や恋や遊びなど、あらゆることから解放されて独りになれるのはトイレか風呂くらいのものだ。だからかしらん、俺は風呂に入ると思索が加速する。あらゆる柵から解放されて、自由な関心に没頭する。
 俺はそれを浴室思考と呼んでいる。
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2011年11月20日

温泉行きたい。

 11月始めの連休を過ぎると、家族で箱根へ行ったことを思い出す。広い浴場でのんびり温まって、ポーラ美術館へ行ったりした。太鼓橋のある睡蓮の衝撃はいまも強く残っている。

 ホテルで見たニュースでは、気象予報士が「初氷」を伝えていた。

Live Number:70
和洋折衷 vol.8
日時:11月19日(土) 開場13:30/開演14:00
会場:下北沢COLORED JAM
出演:Kaz & the '60s Mind Project/渡辺タテタ/小川史奈

セットリスト:
季節の短歌、八首
「サイダー」
「直子」
「ノルウェーの森」(ビートルズ/訳詞:渡辺タテタ)(w/Kaz)
「アクロス・ザ・ユニバース」(ビートルズ/訳詞:渡辺タテタ)(w/Kaz)
「檻の中は自由」
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2011年11月17日

ライフライン(復旧)

 震災後に「UUONDERGROUND(驚くべき世界)」というテーマを持って、人の振舞いを詠ってきた。勇敢である人、或いは近視眼的になり、他者の日常生活を不謹慎と断じる人。常態を失って、驚くべき言動が満ち溢れた。
 あの瞬間、(ああ、これから何千人という人が死ぬんだな)と、阪神の震災を思い出しながら吉祥寺でカレーを食べていた。カレーを食べながら、悲しかった。そして東京の人たちが、まるで初めての震災であるかのように慌てふためく姿を見て、コミットメントの距離を感じた。この人たちにとって阪神大震災は他人事だったのだなと。それは例えば一年前のハイチの地震と津波のように。

 東日本大震災を受けて、加藤なおきさんが作った歌「ライフライン」をタイトルに、人の繋がりをテーマにした企画です。
 人の目は前にしか付いておらず、世界を別の方向から見るためには立ち位置を変えなければならない。多様なアーティストが集まることで、多角的に人の繋がりを表現できればいい。その一助になれればいいと思う。

Live Number:67
アコ再SP〜続・ライフライン〜
日時:11月16日(水) 開場18:30/開演19:00
会場:川崎セルビアンナイト
出演:加藤なおき/ゴロンタ/渡辺タテタ/MOKORIN/マサトシ/Uta

セットリスト:
2011年の短歌、五首
「サイダー」(初演)
恋の短歌、五首
さよならの系譜
「アクロス・ザ・ユニバース」(ビートルズ/訳詞:渡辺タテタ)(初演)
気が乗らなかったので「2010年」の朗読をやめる(パフォーマンス)
コーラを買う(パフォーマンス)
「檻の中は自由」(w/加藤なおき、マサトシ、ゴロンタ、MOKORIN)
posted by 渡邉健太 at 01:47| Comment(0) | TrackBack(0) | ライブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月14日

囚人とサル

 命には限りがあるから、本能はより長く健康に生きようとするし、種を保存しようとする。その継続が上手くいくように、性は美しく映る。花は受粉のために開くときに美しく、鳥は求愛のために翼を広げ力強く鳴くとき美しい。
 人間も同様に動物であるから、快楽は生命の維持と種の保存に近しく、苦痛は死に近しい。栄養の豊富な食事は美味しく、毒は不味い。そして健康な異性は美しい。

 けれども人間はそうした生命の維持や、種の保存に関わらないものをも美しいと呼ぶ。衣食住に寄与せず、性的でもないものを美しいと愛でる。言葉や音や、色、形。それらを作っては芸術と呼ぶ。
 人間を他の動物と隔てるものは芸術だ。これを理解しなければ、人は道具を持ったサルに過ぎない。我々とサルとを差別化するものは、技術の発達ではない。芸術だ。

 かつて美しいといわれた芸術作品がある。それらが今日も美しいと証明できるのは、過去の偉大な学者ではない。いま生きて、それを目にし、感動する人間だ。その人間が感嘆の声を漏らしたとき、作品は芸術であると証明される。
 そこには権威も何も必要としない。ひとつの生命体が、その維持継続のために寄与しないものに心を奪われたという事実は、どんな権威よりも尊い。遠からぬ将来、その火が燃え尽きる命が足を止めたのだ。その心囚われた人間の姿こそ、作品の美の証明に他ならない。

 誰の目にも留まらず、忘れ去られれば作品は美しいことをやめる。芸術であることをやめてしまう。だから我々はそれらを創作し、公開しなければならない。芸術の存在を証明し続けなければならない。
 パリのアパルトマンに住む画家志望の男が、ゴミを捨てようと部屋を出た。すると隣の住人に出くわした。隣人は言った。「ゴミなら俺が捨てといてやる。お前は絵を描け。」隣人自身は絵を描かなかったが、芸術が人間を人間たらしめる重要なファクターであることを理解していた。画家の社会的役割を果たさせることが、自らを人間にするのだ。

 芸術が継続されなくなったとき、種としてのヒトは残っても、それは道具を持ったサルに過ぎない。足を止め、作品に囚われた姿こそ、人間の証明に他ならない。
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2011年11月07日

布を被った世界

 もう十年近く前になるけれど、ポンピドゥーセンターでシュルレアリスムの企画展をやっていた。
 大学から一緒に留学した一級下の女の子と、書店で地図を立ち見しては、パリの裏路地へ入り込んで教会を見て回ったりした。特に計画していた訳じゃなかったけれど、異様な外観の美術館(外側のエスカレーターが大阪ドームみたいだなと思った)に辿り着き、"Surréalisme"の言葉に誘われて入ることにした。

 そこで世界地図を見た。縦1m以上、横は3mくらいあったろうか。巨大な銅板を打った隆起が陸地に見える。欧州大陸が中央にあり、とうぜん日本は東の果てに位置する。
 それまでも散々歩いて、鑑賞にも時間を要していたので、俺たちはその世界地図の前のベンチに座って一休みすることにした。
 不思議だね、と俺は言った。「ただ打っただけの銅版が世界地図に見えるなんて。」

 それは意味だった。世界地図は意味だ。

 さらに目を凝らして気が付いた。

 国境線がなかった。

 ホームステイしていた家で見た地球儀を思い出す。そこには同じように地上が描かれ、国境には線が引かれ、国ごとに色分けまでされていた。俺がふだん見ている地球はそうやってできていた。道と玄関の間や、歩道と車道の間、ホームと線路の間には境界線がある。目には見えないけれど、そこには境界線がある。現に俺はその線から向こう側へは立ち入らない。その境目を感じたとき、自然に足が止まるのだ。(そしてそんな俺の足下を猫が擦り抜けていったりする。)
 事物を見れば、それに付けられた名前で認識し、その名前が持つ意味で理解する。それが何で作られ、どのように用いられるのか。名前は同時にその意味を想起させる。鉄の棒の集まりをジャングルジムと呼んだり、コンクリートの固まりをスーパーマーケットと呼んだりする。それは人間が与えた意味だ。ただ事物そのものを見れば、そこには意味なんかない。人間がいなければ、ジャングルジムもスーパーもない。

 俺が見ている世界は意味で覆われていた。事物の上に意味という布が覆い被さっていた。
 その布が取り払われ、事物そのものが曝け出されたとき、俺は驚いた。俺の目はずっとそれを見ていたはずなのに、まるで初めて見たかのように驚いた。それは喩えるなら発見で、俺を歓喜させた。

 俺はパリの町で布を取り払うアートに熱狂し、彼女との間にはロマンスのひとつも生まれなかった。
 それから五年ほどが過ぎて、俺は「アニバーサリー」を書いた。
posted by 渡邉健太 at 15:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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