2012年02月11日

11ヶ月後

 まつたく死んでしまつた人間の言葉は、とにかく厄介だ。なぜなら彼(或ひは彼女)は、いまこの瞬間を自分の目で見ることなく物言ふのだから。
 今日僕は本屋へ行つた。絵本と詩歌と、それから哲学・思想を少々。ジジェクの名を見て、いつだつたか「9・11」について参照したテキストが、ジジェクとサイードどちらの言葉だつたろうかと迷つたことを思ひ出した。どうして迷つたかと惟へば、たぶんサイードが死んでしまつたからだろう。いや、ただ自分の記憶違ひでしかないのだが。

 どうしたきつかけからか、アイルトン・セナを思ひ出した。タンブレロの壁に激突するFW16をいまでもはつきりと覚へてゐる。それは人の死に際して、僕が初めて涙を流した出来事だつた。次は、ミッテラン。
 サイードのときは、泣かなかつた。彼はセナほど僕の人生に深くコミットしてはゐなかつたのだろう。その所為で記憶違ひしてゐるのだろう。

 悲しくなかつたのではない。その深度が違つただけのことだ。
 それは例へば、何万といふ人が死んだときでさえ、涙が出なかつたことと同じ理由だ。
posted by 渡邉健太 at 23:57| Comment(2) | TrackBack(0) | 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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