2011年12月18日

シンクロンターレ

「あれは、タクミの判断で、悪いとかそういうことではない。」(2003年、石崎信弘監督/現コンサドーレ札幌監督)

 俺にとってフロンターレはこの一言に集約されている。

 ピッチに立つ11人は監督の手足であり、その判断は監督の判断でもある。監督にとって彼らは自分自身であって、それは誰かが悪いとかそういうことではない。
 スタジアムに立つ12人はひとつのチームであり、その判断は自分自身の判断でもある。俺にとって彼らは自分自身であって、それは誰かが悪いとかそういうことではない。

 カウンターを招いたパスミスも、決定機を逃すシュートミスも、選手を鼓舞するに足りない声援も、すべて俺自身のプレーだ。選手は90分間、最後まで走り続ける。どんなに大差で負けていようとも、残り時間が1秒でも、負ける前から負ける訳にはいかないのだ。だから俺は12番を背負って歌い続ける。

 全体には個別の役割がある。組織する役割、走る役割、歌う役割。
 テクニカルエリアに誰が立っていようと、ピッチに誰が立っていようと、Gスポットで誰がコールをしていようと、ゴール裏で誰が大旗を振り上げようと、すべてが移り変わったとしてもフロンターレであることだけは変わらない。そこで俺は歌う。

 フロンターレは俺自身であって、それは誰かが悪いとかそういうことではない。

 すべてが違う試合で、すべてが違うシーズンで、すべてが無常であるこの世界で、ただフロンターレとしてたゆたう。
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2011年12月16日

FCバルセロナ雑感

1
 ピッチの片側で繰り広げられる攻防を眺めながら、何かに似ているなと思った。詰将棋だ。
 右にボールをはたく、縦を伺う、寄せる、戻す。左にボールをはたく、戻す。縦に楔のボールを入れる、囲む、跳ね返す。こうした試行を続けるうち、決定的なパスコースやシュートコースが生まれ(王手)、ゴールに蹴り込まれる(詰み)。

 まさに身体を使った頭脳ゲームで、スタジアムで見る創造力豊かな攻撃はさぞかし面白いだろうなと思う。

2
 それが試合である以上、両チームともに求めるのは「勝利」だ。しかしファンは「面白い/つまらない」と試合を評する。

 例えばバルサが苦戦して最小得点で試合が終われば、或いは大量失点に終わったとしてもリスクを犯して攻撃に出れば、ファンは対戦相手を賞賛するかもしれない。しかしそれはバルサが勝つことを前提にした詰将棋だ。フットボールではない。
 負けて「面白い試合だった」と賞賛された対戦相手は、嬉しくもなんともないだろう。彼らは最も重要な「勝利」を得られなかったのだ。そこには齟齬が生まれて当然で、こうした前提条件を一にしない批評は不幸しか生まない。

 善戦は敗者の美学だ。ピッチ上にいる選手がそんな美徳に惚れ込むだろうか。彼らは試合が終わる前から敗者ではない。

3
 ゴール前に置かれたバスの小さな窓、或いはタイヤの隙間からゴールを奪ってみせるブラウグラナは芸術品だ。心が躍り、自然と顔がほころぶ。もはや「アンクロワイヤーブル!」としか言葉が出ない。

 そして圧倒的なボールポゼッションで相手を押し込み、齟齬を生む。

 彼らが行なっているのは、フットボールだということを忘れてはならない。対戦相手へのリスペクトを忘れ、まるで道化のように華々しくやられてみせることを要求してはならない。フットボールを殺すのは守備的戦術ではなく、試合終了の笛が鳴る前から相手に敗者の役割を求める歪みだ。
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2011年11月29日

浴室思考(孤独)

 人間として生まれ、生きるうち、おそらく孤独にはなれない。それが都会ではなく、小さな町であってもだ。
 目を覚ませば家族がいて、ドアを開ければ町人がいる。駅には駅員がいて、電車には乗客がいて、会社には同僚がいて、昼食を取りに入った定食屋には大将がいる。一杯飲みに入った店には女の子がいて、深夜のコンビニには搬入スタッフがトラックでやってくる。客のいない牛丼屋にさえ強盗が訪れる。孤独になるなんて、とても不可能だ。

 それが家族や恋人であっても、煩わしくない人間関係などない。だからときどき独りになりたくなる。孤独というないものねだりをする。

 仕事や恋や遊びなど、あらゆることから解放されて独りになれるのはトイレか風呂くらいのものだ。だからかしらん、俺は風呂に入ると思索が加速する。あらゆる柵から解放されて、自由な関心に没頭する。
 俺はそれを浴室思考と呼んでいる。
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2011年11月14日

囚人とサル

 命には限りがあるから、本能はより長く健康に生きようとするし、種を保存しようとする。その継続が上手くいくように、性は美しく映る。花は受粉のために開くときに美しく、鳥は求愛のために翼を広げ力強く鳴くとき美しい。
 人間も同様に動物であるから、快楽は生命の維持と種の保存に近しく、苦痛は死に近しい。栄養の豊富な食事は美味しく、毒は不味い。そして健康な異性は美しい。

 けれども人間はそうした生命の維持や、種の保存に関わらないものをも美しいと呼ぶ。衣食住に寄与せず、性的でもないものを美しいと愛でる。言葉や音や、色、形。それらを作っては芸術と呼ぶ。
 人間を他の動物と隔てるものは芸術だ。これを理解しなければ、人は道具を持ったサルに過ぎない。我々とサルとを差別化するものは、技術の発達ではない。芸術だ。

 かつて美しいといわれた芸術作品がある。それらが今日も美しいと証明できるのは、過去の偉大な学者ではない。いま生きて、それを目にし、感動する人間だ。その人間が感嘆の声を漏らしたとき、作品は芸術であると証明される。
 そこには権威も何も必要としない。ひとつの生命体が、その維持継続のために寄与しないものに心を奪われたという事実は、どんな権威よりも尊い。遠からぬ将来、その火が燃え尽きる命が足を止めたのだ。その心囚われた人間の姿こそ、作品の美の証明に他ならない。

 誰の目にも留まらず、忘れ去られれば作品は美しいことをやめる。芸術であることをやめてしまう。だから我々はそれらを創作し、公開しなければならない。芸術の存在を証明し続けなければならない。
 パリのアパルトマンに住む画家志望の男が、ゴミを捨てようと部屋を出た。すると隣の住人に出くわした。隣人は言った。「ゴミなら俺が捨てといてやる。お前は絵を描け。」隣人自身は絵を描かなかったが、芸術が人間を人間たらしめる重要なファクターであることを理解していた。画家の社会的役割を果たさせることが、自らを人間にするのだ。

 芸術が継続されなくなったとき、種としてのヒトは残っても、それは道具を持ったサルに過ぎない。足を止め、作品に囚われた姿こそ、人間の証明に他ならない。
posted by 渡邉健太 at 13:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月07日

布を被った世界

 もう十年近く前になるけれど、ポンピドゥーセンターでシュルレアリスムの企画展をやっていた。
 大学から一緒に留学した一級下の女の子と、書店で地図を立ち見しては、パリの裏路地へ入り込んで教会を見て回ったりした。特に計画していた訳じゃなかったけれど、異様な外観の美術館(外側のエスカレーターが大阪ドームみたいだなと思った)に辿り着き、"Surréalisme"の言葉に誘われて入ることにした。

 そこで世界地図を見た。縦1m以上、横は3mくらいあったろうか。巨大な銅板を打った隆起が陸地に見える。欧州大陸が中央にあり、とうぜん日本は東の果てに位置する。
 それまでも散々歩いて、鑑賞にも時間を要していたので、俺たちはその世界地図の前のベンチに座って一休みすることにした。
 不思議だね、と俺は言った。「ただ打っただけの銅版が世界地図に見えるなんて。」

 それは意味だった。世界地図は意味だ。

 さらに目を凝らして気が付いた。

 国境線がなかった。

 ホームステイしていた家で見た地球儀を思い出す。そこには同じように地上が描かれ、国境には線が引かれ、国ごとに色分けまでされていた。俺がふだん見ている地球はそうやってできていた。道と玄関の間や、歩道と車道の間、ホームと線路の間には境界線がある。目には見えないけれど、そこには境界線がある。現に俺はその線から向こう側へは立ち入らない。その境目を感じたとき、自然に足が止まるのだ。(そしてそんな俺の足下を猫が擦り抜けていったりする。)
 事物を見れば、それに付けられた名前で認識し、その名前が持つ意味で理解する。それが何で作られ、どのように用いられるのか。名前は同時にその意味を想起させる。鉄の棒の集まりをジャングルジムと呼んだり、コンクリートの固まりをスーパーマーケットと呼んだりする。それは人間が与えた意味だ。ただ事物そのものを見れば、そこには意味なんかない。人間がいなければ、ジャングルジムもスーパーもない。

 俺が見ている世界は意味で覆われていた。事物の上に意味という布が覆い被さっていた。
 その布が取り払われ、事物そのものが曝け出されたとき、俺は驚いた。俺の目はずっとそれを見ていたはずなのに、まるで初めて見たかのように驚いた。それは喩えるなら発見で、俺を歓喜させた。

 俺はパリの町で布を取り払うアートに熱狂し、彼女との間にはロマンスのひとつも生まれなかった。
 それから五年ほどが過ぎて、俺は「アニバーサリー」を書いた。
posted by 渡邉健太 at 15:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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