2011年10月27日

理由

1
 先日、スティーブ・ライヒの「ドラミング」を鑑賞した。例えるならばデジタル音源の「A-Bリピート」のように、短いフレーズの繰り返し。本作の焦点はそこから徐々に逸脱していくマリンバにあるのだが、俺にとってそれはささいなことだった。長い演奏時間を持つ作品が、反復によって短いフレーズを強く印象付け、まるで短い作品のような錯覚を起こしたのだ。

 それは短歌の反復朗読に似ていた。

 起伏に富んだドラマよりも、端的な事象はより無常を感じさせる。長い時間に及ぶストーリーは変容を内包し、つまり無常を取り込んでしまっている。無常は連続して在り、結果的に感得されるのは常だ。例えば我々は変化し続けているはずの毎日を「日常」と呼ぶ。
 しかし一瞬の出来事は、それ自体が一瞬であることに起因して、次の瞬間には消えてなくなっている。過ぎ去った瞬間は刻一刻と遠ざかり、その喪失をより克明にする。それは無常を浮き彫りにする。動画と静止画の差異だ。そして短歌は静止画の側にある。

2
 音楽は音を素材にして、絵画は色や点を素材にして作品を生み出す。それらは全体としてイメージを伝播する。
 例えば楽曲が和音や規則性のある進行を伴っていれば、音が互いに馴染んで絡み合い、全体として感得される。或いは流れるように描かれた線は強力な象形として出現し、それが点の連続であることを感じさせない。しかし不協和音は音の一粒ごとが主張し合い、或いは点描は絵画の素材が点であることそのものを曝け出す。

 詩は言葉を素材にして作品を成す。言葉は意味を持っており、知覚とは即ち言語化だ。しかし韻文は素材としての言葉を浮き彫りにし、ときには意味をも麻痺させる。そうすることで散文との差異化をはかっている。
 現代音楽や点描の絵画を鑑賞するたびに、素材の生の姿を見せつけられ、言葉を事物として見ることを再確認する。人は忘れる生き物だから、俺は何度も鑑賞に通う。

3
 俺は短歌を詠み、そして読む。

 短歌によって切り取った一瞬は、もはやこの世界に存在してはいない。すべてが無常であることを詠うために、それは舞台(時間の芸術)として見せなければならない。歌集は開くたびにその歌を見ることができ、それは絵画や彫刻(空間の芸術)の側である。何世紀にもわたって残るそれらが無常であることを知るには、あまりにも長い時間を要する。
 無常を動機とし、それを演出したいと願うのならば、この三十一文字の刹那は朗読されなければならない。だから俺はライブをするのだ。
posted by 渡邉健太 at 14:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月14日

舌を噛んで黙れ

1
 ヨコハマトリエンナーレに『5番目の壁』という作品があった。
 四面の壁に囲まれた部屋の一角に隙間があり、そこから覗き込んで見えるのは、やはり四面の壁。俺は注意深くキャプションと室内を交互に見やる。するとスタッフの女性が声をかけてきた。部屋の中にビデオのテープが垂らしてあって、入り口からは見えないけれど、中に入っていくと云々……。

 つまりはこうだ。左右の角の対角線上に天井からテープが吊してあり、細い面が隙間のある角を向いているためにそこからは見えない。が、中へ進むと徐々にテープの広い面が見えてきて、並んだそれが部屋の中央に壁のように現われるのだ。

 なぜこんな壁と磁気テープがアートなのか。
 それは偏に驚きだろう。何もないように思えた部屋に、実は見えない壁があったという驚きだ。再び入り口へ戻ったときには、視界には映らなくとも経験がそこに壁を浮かび上がらせるだろう。同じ世界の違う側面を見るという発見の喜びが沸き起こる。こうして人の心を揺さぶるインスタレーションだから、この作品はアートなのだ。

 あのスタッフは作品の構成ではなく、芸術とは何かをこそ理解してから現場に立つべきだった。それは知覚するものではなく、感得するものだ。むしろ何も知らない保守管理スタッフをぼんやり立たせておいた方が100万倍よかった。
 もしも感動に気が付かれなければ、それは仕方がない。それもまたアートの宿命だからだ。

2
 ライブハウスで歌うとき、作品の動機を懇切丁寧に説明するシンガーがいる。自分がいつ、どこへ行き、何を見聞きして、どう思ったか。そして何を伝えたくてその歌を作ったのか。
 説明が終わったら、もう歌など聴くまでもない。いまからどんなことを歌うのか知っているからだ。そのメロディーや、詞に置き換えられたモチーフのメタファーがどんなに素晴らしくても、感動するのは困難だ。

 アーティストは意味を伝えたいのか、それとも相手の心を揺さぶりたいのか。
 感動は明確なものではなく、むしろいまのは何だったのかと不安になるようなものだ。それをもっと見たい、聞きたいと鑑賞者の側が自発的に近づいてくる類のものだ。意味を理解し、すとんと納得してしまったら、さらに近づきたいと思うほどの関心が残っているだろうか。

 作者や展示に関わる人間は、その意図に気付かれないことを不安に思うかもしれない。それでも沈黙するのだ。人の心を揺さぶる作品の波動を、自ら断ち切ってしまうことをこそ恐れなければならない。
posted by 渡邉健太 at 17:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月06日

Like a Role Playing Game

 こんな夢を見た。
 画面の中央からぐるぐると渦が巻いて暗転し、鳥山明の描いたスライムが現われた。しかしメッセージウィンドウには「ドラゴンがあらわれた!」と表示されている。勇者けたんは鉄を鍛えた剣を振り下ろし、50のダメージを与えた。それでもスライムは倒れなかった。(※そもそもスライムを打撃で倒そうとすること自体に問題がある。)どうやらこのスライムの画像はバグかなにかで、本当はドラゴンと戦っているようだ……。

 目を覚ました俺は、ベッドに横になったまま考えた。あれはスライムと戦っていたのか、それともドラゴンと戦っていたのか。理不尽な夢を見て、こうした疑問を持つのは正当なことのように思った。
 けれどもそれはドラゴンクエストの辞書の上でのことだ。もしも俺がスライムだと認識している外見のモンスターを、ドラゴンと呼ぶ世界があったとしたら。つまり違う辞書を持った世界と交信したならば、それは意味を為さない。

 むかし、『ドラえもん のび太の宇宙小戦争』という映画があった。
 ピリカという地球ではない星に住む人々は、我々がネズミと認識している動物のことをネコと呼んだ。ドラえもんはいないと教えられたネズミに下水道で遭遇し、それに大いに憤慨していたのを覚えている。つまり辞書が違うのだ。

 こうして意味の整合性を失った世界に紛れ込んだとして、しかし夢は困惑させるよりも強く誘惑した。言葉が意味を為さなくとも、目に映るものや耳に聞こえる音で世界を認識できるからだ。そしてそれが見たことのない世界なのだとしたら、もはや好奇心に殺される猫になるしかない。俺は辞書を捨て、新しい世界から巻き起こった渦に飲み込まれる。

 例えばそれは、初めて聞く詩の朗読に似ている。

 理科室にはアルコールランプや顕微鏡があり、図書室には本がある。意味を伝えるための言葉は互いに同じ辞書を持つ。しかし詩の世界では太陽が月であったり、月が金星であったりする。そのものである必要もなく、意味の間違いに憤慨することもない。伝えるべきものが意味ではなく、イメージだからだ。
 詩の言葉は、虚か実かと問えば虚だ。それを読者やオーディエンスが実にしてしまう。目や耳にした人がそのイメージから像を結ぶのだ。空の涙や大地の怒りを、雨や地震にするのだ。ライク・ア・ロールプレイングゲーム。

 ゲームマスターの言葉は、虚か実かと問えば虚だ。それをプレイヤーが実にするのだ。まるで詩のように。
posted by 渡邉健太 at 03:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月03日

いま誕

 誕生日までに脇腹すっきり計画は失敗。

 でもあと366日ある。

 昨日と今日に大した違いはなくて、実は去年と今年もそんなに違わない。(まるでデジャヴュのように内臓の具合が悪い。)だけど少なくともアラサーを装うと28、29のみなさんから「出てけ!」と言われる年齢が自動表示されるようになった。さよなら、アラサー。
 そして不惑を迎えもせずに41、42のみなさんと同じであるかのようにアラフォーを語るのは失礼だと思うので、しばらくアラウンドとは無縁の日々です。

 ライブが終わったので、今日は部屋の掃除をします。だから来てください。(次のライブに)
posted by 渡邉健太 at 14:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月30日

さよならの系譜

 これまでそれなりに上手く付き合ってこられた相手と、急に喧嘩別れする。もう頭にきちゃって、そいつの悪いところしか見えない。いままで散々世話になってきたし、お互い様だと思うんだけどね。

 かれこれ四年ライブ活動をしてきて、そのうち三年くらいエレキギターを弾いている。だから俺はステージで感謝してきたし、だけど使い過ぎを警告もしてきた。

 ありがとう、原子力発電。おかげで綺麗な夜景を見られたし、俺は気兼ねなくギターを弾けたよ。
 いろんなやつがおまえのことを悪く言うけど、おまえの落ち度なんてひとつもない。ぜんぶ俺たちが悪いんだ。だから何も気にしなくていいよ。

 みんな太陽光とか風力なんかにめろめろだけど、新しい恋がかならず上手くいく訳じゃないからさ。そんなとき、きっとおまえを懐かしがるよ。CO2排出規制のことなんか棚に上げて、ここぞとばかりに石油を燃やしまくる身勝手な俺たちだからさ。
posted by 渡邉健太 at 15:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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